みなさん、ごきげんよう。いかがお過ごしかしら。

夫を亡くしてからのわたくしの生きがいは、どうにかして初恋のあの人と再会をすること。

彼に関する手がかりはストリートミュージシャンだということと、空き家が好きだということだけ。日本中の空き家を巡れば、彼と再会できるかもしれない。あわよくば見つけた空き家で彼と暮らせるかもしれない。そう思ってお抱え運転手の吉井とあちこち訪れているのだけれど……。

あら、なんだか潮の匂いがしたような気がするわ。

吉井「さすが奥様。海がすぐ近くを走っているんですよ。本日の目的地である三重県志摩市磯部町はもう間もなくです」

志摩市……聞いたことがあるわ。

吉井「観光スポットとして有名な志摩スペイン村がございますから、それによるところかもしれませんね。今日の物件からも近いんですよ」

志摩スペイン村。物件からは約5kmの距離。

そう、それよ！　スペイン村！

ずっと不思議だったのだけれど、どうして志摩にスペイン？

吉井「三重は観光立県ですが、スペインも観光立国であったり、いろいろと通ずるところがあるからだそうです。アミューズメントパークとして家族でいつもにぎわっているんだとか」

観光立県ということは、ほかにも見どころがいろいろとあるってことかしら。

吉井「そうですね……有名なところですと『天の岩戸』などでしょうか」

天の岩戸

天照大神が、弟の粗暴なふるまいから逃げるために引きこもったと言われているところよね。あの話を知ったとき、乱暴な人にはビシッと言えるぐらいの強さを持たないといけない、と思ったものよ。

吉井「奥様は通りすがりのマナー違反にも臆せず注意なさいますからね……吉井もよくハラハラしたものです」

刺激になっていいでしょう？

吉井「確かに。奥様と一緒にいると人生に飽きるということがございませんね」

ふふっ、そう言ってくれると思った！

……なんて言っている間に自然が溢れる場所にさしかかってきたわね？

吉井「はい。今日の物件は間もなくですよ」

まもなく……？

なんだか植物園のような建物が見えるだけだけれど。

吉井「あちらが今日の物件です」

あら！　家が木やツタで覆われていたものだからてっきり植物園かと思ったわ！

なんだかノスタルジックな気分に浸れそうな外観！

吉井「築40年、空き家になってから10年経ちますので、修繕などは必要そうですね」

そうね、でも外側は活用できそうだわ！

吉井「新築時は3棟ならんで別荘として建てられていたそうで、今も中央の一棟はお住まいになられている方がいらっしゃいます。オーナーさまとしては隣に住まれている方がいらっしゃるということで、メンテナンスができる方にご購入いただきたいとのことです」

門があるのも素敵ね。自宅を思い出してなんだか安心するわ。

……ちなみに吉井。今回は先に聞いておくわ。こちらの物件、いくらなの？

吉井「100万円でございます」

きっとお買い得案件なんでしょう！？　心して見ていくわ！

吉井「奥様も空き家を見るのに慣れてこられましたな！さあ、今回は内見もできるとのこと、入ってまいりましょう。間取りもございますから、ご覧ください」

ありがとう。

……ふむふむ。玄関入ってすぐのところに水回りが固まって設置されているのね。やはり帰ってきてすぐに手洗いも、うがいもしたいものね。

オーソドックスな洗面所に……こういうほうき、懐かしいわぁ。ちょっと短いから腰が痛くなっちゃうんだけどね、小回りが利くほうきはいいのよ。最近は家政婦さんに任せちゃっているけれど。

ここで暮らすなら、わたくしでもお掃除できる広さだからがんばっちゃおうかしら！

で、ここはお風呂ね。

ちょっと、吉井！　なんだかビビッドでかわいいわね！

ピンクのタイルはかわいいし、グリーンの浴槽って素敵じゃない？　わりと大きめの窓がついているのもポイントが高いわね。

吉井「しかし奥様のご自宅のバスルームと比べると手狭では……？」

あれはちょっと広すぎるのよ……ひとりで入っていると寂しくなるじゃない？

わたくし、実はこれぐらいの広さのほうが落ち着くの。

吉井「では、バスルームはお手入れをして現在の状態を活かしつつ利用するのがよさそうですね」

そうね。

……あら、キッチンも広いわ！　床のタイルも今でいう、レトロ？　なのかしら。かわいい！

いけないと思いつつも、かわいいばっかり言ってしまうわね。

でも、すごくわたくし好み！

吉井「メンテナンスさえすればダイニングキッチンとして活用できるかと。水回りにつきましては、正常に利用できるかは今のところ不明でございます。上水は敷地内の井戸が接続されているとのこと」

井戸！　なんだかいいわね！

吉井「また、ガスはプロパンガスですが、現在は解約済みだそうです」

その辺りは家の購入を決めてからおいおい対応していけば良さそうね。

で、最後は居住スペースね。まあ、こちらも広々！　フラメンコが踊れそう！

吉井「それぞれの部屋の見通しも良いですね。残置物も少ないので、すぐにでもメンテナンスできそうです」

これなら、部屋にこもってしまってコミュニケーションを取る機会が減るということもなさそうね。

寝室、二人で過ごすリビング的な場所、あとは書斎かしら。趣味の部屋にしてもいいかも。

吉井「おや、奥様……初恋の君と一緒に暮らすことを想定されているのですね」

あ……っ、わたくしったら！　違うわよ、夫婦で暮らす人にはそういう使い方もあるわよね、と思ったの。

吉井「まあまあ、そう照れ隠しなどなさらずに。確かに夫婦はもちろんのこと、単身でもゆったり過ごすこともできますし、ファミリーでも使いやすそうですね」

すごく素敵なおうちなのに、どうしてオーナーさんは手放すのかしら。

吉井「親戚から贈与された物件らしいのですが、お住まいが遠方のため、メンテナンスができないようですね。こちらの物件を再生してくださる方に託したい、とのことです」

なるほど……そういうことだったのね。

吉井「実際、環境はとても良いかと。自然に囲まれていながら、国道167号線にもすぐに出られますし、不便もなさそうです」

そうそう、車があれば心配はなさそうよね。そういうば、駐車スペースはあるのかしら。

吉井「現在はありませんが、庭部分にスペースを作ることができそう、とのことです」

言うことなしじゃない……。

吉井「オーナー様からは、『静かな暮らし、小さな満足を愛せる暮らしが実現できるのではないかと思います』というお言葉を頂いております」

小さな満足を愛せる暮らし……良い言葉ね。日常で忘れてしまいがちなことだものね。

これで100万円でしょう？　いいじゃない！　リフォームやメンテナンスにしっかりお金がかけられるし。

広いから一室で何かお教室を開いてみるのもいいんじゃないかしら。そう、音楽教室とか！　メンテナンスのときに一室だけ防音設備をつけてみるとか。

音楽教室（※画像はイメージです）

吉井「建物自体がしっかりとしていますから、そこからどのように変えていくのか、を考えるのも楽しそうですね」

のんびりと田舎ライフを満喫したい人にはぴったりね。

あの人とふたりで……田舎ライフを満喫……ふふふ、ふふ……。

吉井「お、奥様？」

ンンッ、なんでもないわ。さあ、行くわよ、吉井！

吉井「ど、どこへでございますか？」

あの人を探しに！　今回はなんだかこの近くにいる気がするの！

見つけたら、この家で暮らすのはどう？　と確認するの。

吉井「やはり、一緒に暮らす妄想をされていたのですね……」

何か言った？

吉井「い、いえ何も！　ささっ、参りましょう！」

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